天才数学者ベレルマンとアフィリエイターの話。
承認欲求がうたわれる現代社会。結果が全てのプレイヤー。人に何かを教えることのあやふやさ。人は変われるのかどうか。
世界的スーパー数学者と繋がるとは思わなかった。
ポアンカレ予想を解いたベレルマン
ポアンカレ予想とは?
単連結な3次元閉多様体は3次元球面S3に同相である。
この予想は「ポアンカレ予想」と呼ばれる。1904年にフランスの数学者ポアンカレが提起した命題で、難易度はどれほどかといえば「どれくらいすごいのか理解できないくらいすごい」のだという。
- ポアンカレ予想が解けたら宇宙の形が分かる
- 100年間、世界中の数学者を悩ませた難問
- 懸賞金は1億円
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ベレルマンの変態エピソード
名の知れた数学者にはいくつもの「変態エピソード」が存在する。
いわゆる変態である。ベレルマンのみた世界とはどんなものだったのか。ぼくでさえ、数々の学問や理論に触れて世界の見方は変わった。化学を学べば「ゴキブリの汚さとは一体なんなのか」と化学式レベルで考えて退治する際に冷静になれたり、相対性理論や量子力学をかじれば面白い示唆が得られる。
ベレルマンの「美しい答案」の話
もう1つ、取り上げたいエピソードがある。
ベレルマンの答案は昔から、必要最低限の数式のみが書かれている美しい答案だった。ポアンカレ予想を世界のトップ数学者に解説した際にも、数式が「飛び飛び」すぎて、その場の数学者の誰もが理解できなかった。
つまり、あくまで人に解説しようと思っているのではなく自分の世界を突き詰めてきた。だから誰に分かってもらえなくてもいい。
人に対して失望するでもなく、遠ざけるわけでもなく。ただ自分の進みたい方向に向かって歩いていたら、いつの間にか誰もいない場所にきてしまった。
誰に分かってもらうでもない。ただ自分が難問を解いた結果による達成感、そして過程。そこにある自己満足感に生きた人だったと思う。人に理解してもらうことによってではなく、結果を出すことによって生きていたと言っても大袈裟なことじゃない。
ところで彼の味わった「孤独感」は、天才数学者にしか関係ない話だろうか。ぼくはそうは思わない。この世に生きる全ての「プレイヤー」に関係のある話だ。
プレイヤーとコーチの分類
価値の起点
池上彰はコーチ(教育者)としてのプロだ。彼が突き詰めている分野は、結果が求められない分野だ。人に分かりやすく伝える術とか、自分の情報整理の方法とか、価値のあるコンテンツはこのあたりだろう。これらは株トレードやスポーツの世界の「プレイヤー」とは対極にある。池上彰は人に求められるがゆえに存在する。
- プレイヤーは突き抜ける。コーチはそこそこの結果で満足する。
- プレイヤーは結果で示す。コーチは人の共感や同意を集めて評価される。
2つの相違点は「価値の起点」だ。
余談だが、ぼくは才能のあるお笑い芸人もこの矛盾を抱えて生きていると思う。野球選手に例えるならば「打者として結果を出さないと打撃コーチになれないが、打撃コーチとして人気がよくないと売れない」という状態だ。ライターにもいえる。才能のあるライターに「どうやってうまく文章を書くのか」と問うたところで、満足のいく説明は得られない。全て感覚の中にあるからだ。
「説明されて理解した状態」≠「体で理解している状態」
「体で理解している状態」≠「説明できる」
往々にして「体で理解している状態まで行くためには、言語で説明することを放棄しなくてはならない」場合もある。いわゆるトレードオフだ。
ベレルマンの美しい数式と同じで、いちいち凡人に合わせて言語化していたら、一生かけても終わらない。だから、自分の最高のスピードで駆け抜ける。これがプレイヤーとして結果を出す方程式だ。
長嶋茂雄にコーチングされても、大衆は喜ぶ。
長嶋茂雄に「バッといってガーンと打つ!」と教えられても、打撃がうまくなるわけじゃない。それでも結局、大衆は話をありがたがって聞くのだけれど。
単に言語体系が一緒であるだけで「その言葉の本当の意味を理解していない」という重大な欠落には気付いていない。
このトンチンカンなやりとりが成り立つのは、どれもこれも人は変わりたくない生き物だからだ。ダイエットが趣味のようなもので、ダイエットに挑戦している自分が好きなだけだ。ラーメンを食べるためにダイエットしている。本当に痩せたいわけではない。
アフィリエイトだってそうだろう。アフィリエイトに挑戦している自分が好きな人がたくさんいるはずだ。そんな人間は、適当な理由を見つけて去っていく。
現在の市場で成功しようと思ったら、まずは結果を出さなくてはならない。学歴だろうが資格だろうが、経歴だろうが稼いだ額だろうが、結果を出して人にアプローチをする。価値のあるところに価値は集まってくる性質がある。情報も情報のあるところに集まってくる。成功したいなら、このルールの上でゲームに勝っていく選択肢しかない。
ちなみにぼくも「考察をしている自分が好き」でブログを書いているし、自分の考察は周りの人間を豊かにするとも思っている。けれどこれでは限定的な範囲にしか影響を与えられない。もっと社会的存在をデカくするために、コーチとしての自分を捨て、プレイヤーに移行する必要性を感じている。
プレイヤーとして結果を出さなければ、始まらない
アフィリエイターとして気になるトピックは
- 結果を出したい
- 認められたい
の2点に集約されるだろう。ちょうどよかった。たったいまこの2点の「相関」について話し合っているところだ。
結論は簡単で、結果を出したいアフィリエイターはプレイヤーとして生きればいい。認められたいアフィリエイターはコーチとして生きればいい。ただし、最初からコーチとして生きる道はない。コーチになるには、プレイヤーとして成功する必要がある。
プレイヤーとして生きる
プレイヤーとして生きるとはどういったことだろうか?
- 常に数字との戦いで、緊張が途切れることがない
- サイトが飛んでも案件が終了しても、誰も助けてくれない
- 「よくできたね」なんて褒め言葉はない
- 「いつもありがとう」というお客さんの言葉もない
- 代わりに「数値データ」が残る
結果の解釈に満足を求めるな
ときに「結果」は理解されない。ベレルマンもポアンカレ予想を解いていなかったら「ただの変人」と言われて終わっただろう。彼の偉業に対して、周囲は1億円とフィールズ賞、それから人々の賞賛が値するだろうと考えた。しかしベレルマンは「宇宙のかたちが分かった。それだけで十分じゃないか」と静かに答え、全ての賞賛を辞退した。
日本で凡人として生きるぼくらにしても、そうである。
- 某有名大学に受かった
- 年収XXXX万を超えた
- Webで生計を立てている
それらはすべて「結果」であり、10回中12回くらいの確率で、自分の解釈とは違った形で伝わっていく。自分の解釈は置いておいて、人は勝手に賞賛や同情を送ってくる。
アフィリエイト?月XXX万も?何か悪いことをやっているに違いない。楽でいいよなー
これは笑える話でこそあっても、腹を立てる話ではない。人の承認を得るのならどんなプロの道にも進むべきではない。「抜きん出よう」と思っているプレイヤーが、人の承認を餌にしてはいけない。人々の心にはコンフォートゾーンがあり、それぞれが勝手な解釈を取り付ける。1人1人が自分の人生を生きているのだから、これまでもこれからも・・そうやって人は生きていく。人の評価を得て安心した瞬間に、自分の成長が止まってしまう。
イチローや本田圭介、ホリエモンのように「自分の信念に従う」こと。あるいはスティーブジョブズだってそうだっただろう。このスタンスを隣のおばちゃんが「ストイックだわねぇ~」というのならきっと、世間的にそうなんだろう。
結果の解釈はたいてい間違っていて、自分だけが真実を知っている。人がついて来たり離れていったりするけれど、その中で自分の心が指し示す方角だけが頼りな世界。真っ暗で静かな大海原に自分のボートを浮かべて、ただ一番光り輝く星に向かって進んでいく。プレイヤーの世界で生きるって、つまりこういうことなんじゃないのかな。
人間は分かり合えない
「人々は分かり合えるか」と訊かれたなら
人は絶対に分かり合えない。だが、分かり合えないということを分かりあえる
とぼくは答える。
ではどうすればいいのか?簡単だ。そんなときは「自分は何ができるのか?」とだけ問えばいい。世界のうちで変えられるのは自分自身であり、自分に対して責任を持つのも自分だけだからだ。
世界は複合的に組み合わさってできている。最も美しい線を描いて生きていく。
いちいち説明しなければならないのはツライ。どれだけ説明すれば理解されるのか。努力してきた人間は周囲の人間の反応にこう思うだろう。しかし、付き合う人間が変われば、視界は開けていく。
自分1人で研究に没頭しなければ、ベレルマンはポアンカレ予想を解くことはできなかった。誰かに頼んで一緒に研究に取り組むのではなく、たった1人で取り組むしかなかった。
どんな人間でも、多かれ少なかれ「他社の介入を許さずストイックに突き詰めなければならない命題」が存在する。命題が解けるか解けないか。答えがあるかどうかも分からないけれど、その先の世界を見たいから打ち込み続ける。そんな誰も介入できない欲望があっていい。
大学受験だって、アフィリエイトだって、マラソンの練習だって。話をする仲間は必要かもしれないが、最後に対面する強敵は自分であり「自分が作り出した壁」である。結果が出ようと出まいと関係ない。自分が後悔しないように、ただただその先の世界を見たいからストイックに突き詰める。
才能がないと卑下する暇があったら、この文章をよく読んでほしい。ベレルマンにしても物理や数学の才能こそ認められて研究に打ち込んだが、生来好きだったかどうかなんて分からない。「得意」であることと「好き」である対象は時に同相だ。「好き」なものが得意になるかもしれないし、「得意」でやっていたことが好きになるかもしれない。そして「得意」や「好き」さえも、思い込みだったりする。凡人の才能なんて誰にも分からない。
ただ目の前のできることに最善を尽くすのみ。「なぜベストを尽くさないのか?」と問いかけろ。コンフォートゾーンをはずして抽象度をあげろ。よき仲間と付き合え。日々勉強し改善せよ。将来のビジョンなんてなくていい。ただ、向き合っていく君の姿勢が将来の君の才能をつくるのだから。
トレードオフの世界にこそ、価値はある。そしていつか結果をぶら下げて、人様に勘違いされながら、同じ志を持った仲間と出会う。100年に1人の天才であるベレルマンと違って、ぼくら凡人には出会うべき人間がいる。
プレイヤーとコーチ。この2つをどう使い分けるかって人生の戦略の1つなんだよ。
書ききれなかったけど関連する項目について
不確定性原理の観測者効果
観測者がいる以上、対象は正確に測ることはできない。つまり自分自身について正確に観測しつつ結果を出すことは難しい。
人生におけるトレードオフ
何をするかではなく、何をしないかで考える。特に現代の情報が溢れた時代には有効。
結果を出してから、実感する
これまでに実践していない分野で結果を出すならば、とにかく量に集中する。
何か目標があったときに、間違いなく実在する障害は「コンフォートゾーン」である。夢中になって何かを勉強して、受けたテストで100点満点を取る。自分のセルフイメージは「60点の自分」である。潜在意識はそれを元に戻そうとする。
突き詰めた人間同士は理解できる
トランペットの演奏家であれ、株取引のトレーダーであれ、スポーツ選手であれ、経営者であれ。全ての人間は山の頂上で再会することができる。自分が何を持って生きるかは山の頂上に至るための道筋でしかなく、道筋は全ての人間の場合で異なっている。自分だけの道のりを登っていくと、頂上で他の道のプロと分かり合えるものが生まれる。だから安心して突き詰めればいい。
"Happiness Only Real When Shared"
「イントゥ・ザ・ワイルド」という映画がある。分かち合ったときにこそ幸せは実現する、という意味。